ありがとうございます。会社設立から30年

社長 柳川 拓三

30年前のあの日…。個人から法人に決断を迫られたあの日。両親が築いてくれた基盤を大切に、理念は継承しながら組織運営に踏み出したあの日。30年の歳月の数々の思い出と共に歴史を刻み、本日10月1日で設立30年の節目を迎えることができました。その間、数知れない多くの方々にお世話になり、沢山のご縁をいただく中で育てていただきましたこと、衷心より感謝申し上げます。

会社設立後、いわゆるIT革命の波で世の中は急激な変化とグローバル化が進み、情報の海に投げ出され、荒波に翻弄される時もありましたが、このような時こそ「看却下(かんきゃっか)」の説く、足元をシッカリ見つめ、『丹波伝心』丹波における㈱やながわの役割を判断基準に歩んで参りました。後の店舗展開にあたり「夢の里やながわ」と名付けた原点である「夢」とは、志・希望・挑戦であり、「里」とは夢の広がりを願ってのものです。

これからも関わるスタッフ一同、心を合わせ「やながわ」らしさの本質を忘れることなく、一歩一歩クリエイティブ(創造的・独創的)な成長の歩みを続けていきたいと思います。

今後におきましても、一層のご愛顧、ご支援を賜りますようお願い申し上げます。

丹波素材で奏でるライブステージ

栗や大納言小豆、黒大豆など丹波の誇る特産を生かした和洋菓子を製造販売している株式会社やながわ(丹波市春日町野上野)が、法人化し会社組織となってから今年で30周年を迎えた。特産物を自社の加工場で一次加工し、その原料をもとに製造、販売するという一貫したシステムを採っていることで知られ、数々の人気商品を出している同社は、明治25年(1892)の創業で、もともと製菓業ではなかった。どのような歩みを経て今に至ったのかなどを取材した。

4代目の柳川拓三社長(69)によると、始まりは「柳川商店」として丹波の農産物の行商をしていたそう。幼い頃、父親がタケノコを加工し缶詰めにしたり、近くの人たちから山のように集まったマツタケを木箱に詰め、市場に出していたことを思い出として覚えているという。

製茶業も営んでいた。製茶業のウエイトが大きくなったため、「柳川製茶」と社名変更した時期があった。柳川さん自身、大学卒業後は静岡で製茶見習いをし、20歳代半ばから30歳代後半にかけて年間およそ半分、全国の百貨店でお茶の販売に携わった。しかし、その後、缶入りの緑茶やウーロン茶が出回り始め、将来が案じられるようになった。

1988年、「北摂丹波の祭典」が開催された。祭典のイベントで黒大豆を外注加工し販売した。翌年、NHKの大河ドラマで春日町ゆかりの女性、春日局が取り上げられたのを好機に、春日局の名前にちなみ「お福豆」と名づけた黒大豆の豆菓子を販売。東京の歌舞伎座でもヒット商品になった。ただ、「お福豆」も外注加工したものだった。

もともと、ものづくりにこだわりがあるので、自社で加工を手がけることにしました」。ちょうど、掘り手がいなくなったタケノコの加工施設が休眠していたこともあり、黒大豆の特産加工施設を新設した。黒大豆の豆菓子や煮豆、栗の渋皮煮や甘納豆、大納言小豆のあんこ、ぜんざいなどを製造した。

1993年に法人化。個人商店から会社組織になった。当時の従業員は、柳川さんらを除いて4人だった。

加工から販売まで

2005年、加工場の横にこぢんまりした和洋菓子の店舗をオープンした。店名は「夢の里やながわ」。菓子という新しい分野への挑戦だった。地元の牛乳、卵を材料に使い、とことん地元にこだわった。あえて奥まった所に店舗を構えたのは立地で選ばれる店ではなく、目的を持って来てもらえる商品を作りたいという思いからだった。加工現場の地であることも理由にあった。

「丹波は原料提供のまちでした。特産物をそのまま京阪神に送るだけだった。加工がなかった」と柳川社長。そんな丹波で加工をし、さらに丹波で製造、販売をする。「そこには明確なストーリーがあり、波及効果が生まれ、付加価値が高まる。つまり、地域活性化の仕組みができる」という。

お茶の販売が原点

2013年、今の店舗をオープンした。喫茶スペースも広げ、ゆったりした店舗に拡大した。コンセプトは「丹波素材で奏でるライブステージ」。ライブとは何か。「私たちの思いをお客さんに伝え、お客さんからエネルギーをいただく。この相互のやりとりこそ、ライブの醍醐味。素材があり、その素材を生かして加工製造している現地に来てもらうことで、お客さんにライブ感を味わってほしい。この考えは、かつて百貨店でお茶を対面販売していた時に培われたものです」。

柳川社長の父親で3代目である102歳の忠司さんは「お客さんに同じものを売っていては、いつか飽きられる。時代の流れを見ながら、お客さんに喜ばれる新しいものをつくってほしい」と注文する。

同社の業態は時代と共に大きく様変わりした。しかし、根底にある「お客さんへの、わくわくするライブ感の提供」は今後も変わることはない。

一粒ずつていねいに加工

丹波栗のシーズン、店舗の隣にある特産加工場は、渋皮煮や栗のペーストづくりに大忙しになる。常時の従業員に加えて、近隣からベテランの助っ人を迎え、ピーク時には最大で15人ほどが立ち働く。加工場の窓からは、栗の和洋菓子などを求めて店舗にやって来た車が見え、従業員たちは「お客さんに喜んでいただけているかと思うと、張り合いがあります」と話していた。

渋皮煮は、和洋菓子に合う味わいのものをつくっている。皮のむかれた栗を一粒ずつつまみ、渋皮についた筋など、余分なものを取り除く。そのあと、針の付いた専用の器具で、これも一粒ずつ穴を開ける。糖液が染みこみやすいようにするためだ。すべて手作業。1日最大で120キロの栗を扱うという。栗のペーストづくりでは、蒸した栗の果肉を機械で押し出し、裏ごし機にかけたあと、グラニュー糖を混ぜてペーストをつくる。従業員は一連の工程の作業を手際よくこなし、最盛期は1日300キロの栗を処理する。

渋皮煮づくりをしていた、この道15年ほどという従業員によると「9月から10月いっぱいまで、1年に1度の作業」だそう。朝の8時頃から3時頃まで立ちっぱなしの作業。「手も痛くなってきますが、開店前からお客さんが来られるほど、楽しみにされているので苦になりません」とほほえんでいた。

やながわの代名詞 和のモンブラン

素材と季節を大切に

やながわの代名詞ともいえる菓子「和のモンブラン」は15年ほど前に生まれた。スポンジの上にカスタードクリーム、生クリーム、その上にそぼろ状にした丹波栗のペーストを敷き詰め、真ん中に栗の渋皮煮がのっているという、一般的なケーキのイメージをくつがえしたインパクトのある商品だ。農水省の第1回「地場もん国民大賞」で審査員賞を獲得するなど、数々の賞に選ばれている。

9月中頃から翌年1月中旬まで販売する。近隣はもとより滋賀、奈良、島根、広島県、四国などの遠方からの来店もある。地方発送はせず、一人2個までの販売で、昨年は3万個の販売実績をあげた。春日町の店舗だけで1日最大820個を売り上げた日もあった。

「和のモンブラン」と名づけたのは、和の心を大事にしたいという思いからだった。「和食は、素材と季節を大事にします。それと同様に、素材の栗の良さを味わっていただき、季節を感じてもらえるものをつくりたかった」と柳川社長。

素材の良さを大事にし、生かすこと。これは「和のモンブラン」に限ったことではなく、すべての商品に言える。「もともと手がけていたお茶も、その素材の良さを最大限に引き出すことが大切でした」という。製茶業での精神は、やながわの底流にあり、和洋菓子にも生かされている。

株式会社やながわ 広報

丹波の特産品の一次加工や持ち味を生かした和洋菓子の製造販売をしている株式会社やながわの広報です。
全国の皆様に丹波の味をお届けしたい♪

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