若者が田舎から都会に流出していってしまったこの十数年、農村から若者が減りそれに伴(ともな)い、農業を受け継ぐ人も減り荒れた田んぼや畑が増えています。そういった日本全国の農村地区の問題はここ兵庫県春日町も例外ではありません。この1~2年は若干都会からのIターン移住者の受け入れ促進などもあり復活した農地もありますが、それでも手入れがされていない農地が所々にあるのは事実です。いいえ、手入れがされて居ないのでは無くて、手入れが出来ないのですね。
「農業は利益が少ない…」
昔から農業をされておられる方は良くこの言葉を口にされます。貿易が盛んになり、海外から安い農産物がどんどん入ってきて崩壊してしまった価格市場では一般の農家には対抗しようがありません。
その苦労をしてこられた年配の皆様は自分達が経験してきたこの苦労を子供達にもさせたくないという思いもあり、農業の継承を強く言えない…というか「言いたくない」という背景もあるようです。そうした農村なら何処もが抱える農地の荒廃。
野上野という地区で「ある取り組み」
兵庫県丹波市春日町にある野上野(のこの)という名前の地域があります。
日本全国の農村に蔓延した大きな問題でもある「農地の荒廃」はこの野上野地区にとっても他人事というわけではありません。農地を管理したくとも人手がないのでは管理しようにも管理が出来ないのですから仕方がありません…。そこで「野上野の梨狩り園」として近畿各地から観光客が来ていた農園の跡地の一部を利用して町の活性化を目的として町つくり協議会が2013年に数多くの栗を植樹されました。
「荒廃した農地を再活用して特産物を栽培し、この地域に活力を」
「野上野住民が豊かで楽しく暮らせるまちつくりを」
野上野梨狩り園の跡地の2㌶程の空いている農地を利用して植樹をされた栗たちは、こんなにも力強く成長していました。
「桃栗三年、柿八年」
と言われますが、安定した収量が得られるまでには10年はかかるようです。特に今は幼木ですから、干ばつ対策、病虫害対策、雑草対策、鹿などの獣害対策、冬場の凍害対策と手を掛け、この地に根付き、すくすくと育つように愛情を注いでやらなければなりません。そして数年後からは毎年剪定作業をし成木になっていくのです。
この丹波栗の生産量は昭和54年頃をピークに生産者の減少から年々生産量が減り、今ではピークの頃の1/20程しか生産されてい ない状況になっていますが、その原因は①少子高齢化に因り栗園の管理が出来ず廃園になった。②多様化した食生活の中で栗の存在が薄れてきた。③家庭で生栗 を剥くような内食(家庭で料理をする事)が減り栗の消費が減った。等多数考えられますが、日本の食糧自給率(カロリーベース)が40%を割ると言う現実を 考えると栗のみならず日本で生産される農林水産物の国内での生産と消費が如何に減っているかが推察されます。
このような状況の中で、「丹波らしさ」「歴史的背景」「強み」等を活かした中で次世代への夢の樹として「丹波栗」を植栽されたそうです。
将来につながる為の大切な夢の種。この野上野という地域が以前の様な活力のある地区になる為に未来の子供たちにつなげてゆきたいバトンの一つなんだだそうです。「目的は丹波栗を作る事では無い」と関係者の方は言われます。
「この時代を生きている我々が遺すこの丹波栗を活用して、地域の活性化の手段の一つとして受け継いで貰えると嬉しい」
丹波が日本全国に誇れる丹波栗という物を利用して「循環型のまちつくり」を形成して将来の活力ある野上野につながる事を願い託されたとても大切なバトンというわけです。
未来へつなぐ夢の種がひとつ実りました
そんな思いが込められた栗園にたった一つだけですが小さな栗の実がついたと報告を受けました。
ありがたい事にその記念すべき一番最初の栗を触らせていただく事が出来ました。
イガもまだ産毛の様に柔らかく、色も青い野上野の栗園に実った夢の種はあまりにも儚くて繊細なほどに小さい栗でした。いまはまだ弱々しい印象すら受けるほどの小さな丹波栗ですがあと数年もすればきっと立派な夢の実へと成長するのでしょうね。
野上野の栗園で立派に育った丹波栗はやがて未来を担う若者へと受け継いでゆかれてゆくのでしょう。
未来にむけて活気を取り戻し野上野という地区を遺してゆきたい、丹波栗という古来からの財産を遺してゆきたい、そんな思いのこもったバトンのような気がしました。
幼少のころ私はよく梨狩りをしに野上野に来ていたのを思い出しました。もしかしたら近い将来、丹波の子供たちは野上野の栗園に栗拾いに来た思い出をもって大人になるのかもせれませんね。
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